2016年5月1日に本邦初放送となったテレビドラマ版『幼年期の終り』の
第2章(3話~4話の前後編)「偽りの日々」の感想です。
西暦2030年代へと舞台を移してのストーリーが語られる
テレビドラマ版『幼年期の終り』の第2章。
まず目を引くのがサブタイトルが「偽りの日々」と題されているところ。
原作では「黄金時代」(光文社版では「黄金期」)なので
ニュアンスが真逆のものになっているんですね。
そして内容も「黄金時代」が持つ平和で牧歌的なイメージからは遠く離れて
オーバーロードによる支配を喜びつつも疑い、
いまだに言葉を濁して真実を語ろうとしない彼らに対し業を煮やす、という
第1章に輪をかけて不審と不安が渦巻くストーリー。
サブタイトル同様に全体の雰囲気が正反対になっています。
ここでこのドラマ版のスタンスというか主題と視点が分かってきます。
光文社版『幼年期の終わり』の解説文で
巽孝之氏が庄司卓氏の論考を引用して説明しているように
原作ではあくまで「主人公=オーバーロードたち」であり
「淡々としながらも人間と進化を見守る優しい視点」で書かれていました。
ですがこのドラマ版では視聴者の感情移入を重視したのか
「やがて滅びる大人たちの悲劇」の視点で徹頭徹尾描かれているんですね。
だからオーバーロードたちを完全には受け入れられないし
旧時代から続く信仰は捨てきれないし
進化を始めている子供たちのことは理解出来ずに恐怖の対象としか描かれない。
子供たちが能力の片鱗を見せるシーンがポルターガイスト現象そのままだったり
本章のラストシーンが「赤ん坊の目が怪しげに光る」という
あまりにも陳腐なホラー演出となっていることからもそれは明らかです。
そして原作では人間とオーバーロードが互いに友人となって
パーティを開いたり家族ぐるみで交流をしたりしていたんですが
作品の雰囲気にあわせてドラマ版ではそのあたりが総カット。
その影響でオーバーロードの一人、ラシャヴェラクの存在が
無かったことになってしまっているのはちょっと残念なところです。
代わりに1章から引き続き登場するストルムグレンなど
2章以降も原作にはいなかったキャラが多数出てくるんですが
中でも特徴的なのがジャン(マイロ)に想いを寄せる同僚の女性レイチェル。
研究第一の鈍感男マイロにヤキモキしつつも彼に協力する……という
まさかのツンデレラブロマンスがここで勃発です。はい。
アジア系の黒髪の女性であり
「心」の文字が書かれたペンダントをお守りにしている、という彼女の設定は
海外の人にはエキゾチックな魅力に映るのかもしれませんが
このわざとらしいアジア像にはどうしてもしっくり来ない感がありますね。
映画『ハンニバル・ライジング』で
いきなりレディムラサメが出てきた時と同じ違和感です。
そんなわけでいろいろと原作との違いに困惑しましたが
ようやくこのドラマ版の視点やテーマがはっきりし
「最後にして最初の子供」となるジェニファーが生まれたところで次回に続く。
物語はSF史に燦燦と輝く最終章へと入っていくのです。
あ、あとカレルレンが銃で撃たれて死にかけるシーンは
さすがにどうかと思いました。
あれで倒れるのか……(困惑)。