テレビドラマ版 『幼年期の終り』 第3章 子供たち 感想

2016年5月1日に本邦初放送となったテレビドラマ版『幼年期の終り』の
第3章(5話~6話)「子供たち」の感想です。


第三章のサブタイトルは原作の「最後の世代」に対して「子供たち」。
進化した新人類も自分たちにとってはただの子供だ、という
このドラマ版が「滅びる大人たちの傲慢な視点による悲劇」であることが
ここからも浮かび上がってきます。

そんなわけで原作では進化を遂げていく子供を見守る親としての嬉しさと
それを見届けることが出来ない寂寥感、という
諦観と静けさによる美しい人類の最期が描かれていたんですが
ドラマ版では悲劇の部分が異様にフォーカスされ
子供を奪われた大人たちはオーバーロードを恨み、見苦しく抵抗し、
パニック映画さながらに「子供たちを返せ!」と絶叫する展開へとなっています。
そしてニューアテネは核爆弾で大爆発。なんだこれ……。

そしてオーバーロードたちの母星へと行ったジャン(マイロ)も
原作では崇高な覚悟と使命感、責任感をもって実況の任務を果たしたのに
ドラマではただただ混乱するだけで
涙ながらに「人間が生きていた証を残してくれ」と
カレルレンに懇願するという往生際の悪さとみっともなさを見せる始末。
……えーとぶっちゃけ彼まともに実況してません。
終盤の尺がかなりカツカツだったということもあり
(マイロがオーバーロードの母星で目覚めるのがラスト15分前!)
一番観たかったクライマックスが消化試合的に流されてしまったのは正直不満です。
こんな駆け足じゃ余韻も何もあったもんじゃないよ!
第1話のタイトルアバンからずっと引っ張ってこれはさすがに酷いです。

また映画ほどには予算をかけられないテレビドラマの宿命なのか
ふわーっと「浮遊感与えちゃったかな」的に飛んでいく子供たちや
文字通りに真空パックされるマイロには思わず苦笑してしまいました。
これが未来の冷凍冬眠技術なのか……。

あ、ただオーバーロードの宇宙船や母星の描写はかなりしっかりしてますし
オーバーマインドを「真っ白な空間に浮かぶ光の塊」として
ちゃんとビジュアル化してくれたことは評価したいと思います。
いくら陳腐になろうともこういう部分を見せてくれなきゃ
SF作品を映像化する意味はないと思うので。

というわけで要所要所は押さえつつも
大胆なアレンジを加えて映像化されたドラマ版『幼年期の終り』。
いろいろと原作との違いに関して不満を書いたりしてきましたが
「滅びゆく人類の悲劇の物語」として考えると
何だかんだで一本の面白い連続ドラマとして成り立っていると思います。
登場キャラが多く場面転換のテンポが良かったこともあって
6時間ぶっ通しでも飽きずに見続けられたことは事実ですし。

ただここまで主題と視点が外れてしまった本作は
もう『幼年期の終り』じゃないよなあ、という気持ちはもちろんあります。
正直自分が『幼年期の終り』の映像化で一番観たかったのは
クライマックスの全てが吹き上げられ光と共に消えていく美しい破滅の描写なんですね。
はっきり言うとストーリーは二の次で良かったんです(暴論)。
それこそドキュメンタリー番組みたいに語りと映像だけで進めてくれても良かったんです。
古典SFとして手垢が付きまくった『幼年期の終り』を今の時代に映像化するからには
やっぱり人間ドラマより映像的な部分で見せてほしかったなあ、と。

というわけで結論。
『幼年期の終り』の一つのバージョンとしてこういうのがあってもいいと思うよ!
でもやっぱり原作に忠実な映像化も観てみたい!
その時はもちろん映画館の大画面で!
そんな感じです。はい。

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