『100,000年後の安全』と『黙示録3174年』。
宮城県で最もマニア向けな映画を上映してくれる映画館として有名な「フォーラム仙台」で
「100,000年後の安全」を上映しているということで鑑賞してきた。
現在の国内情勢や放射性廃棄物への懸念を鑑みて緊急公開となった本作は
フィンランドの18億年前の地層──未来においても地殻変動はまず起こらないとされる──
に建設中の放射性廃棄物処分場“オンカロ”の安全性を説くドキュメンタリーであるが、
大きな特徴は、その「安全」が現在ではなく「100,000年後」という
超未来を差しているというところにある。
他に例を見ない巨大な最終処分場“オンカロ”は地下深くに封印され、
人の手を全く必要としないまま100,000年間は保存されることが約束されているが、
果たしてそれほどの長い間、封印は維持され得るのか。
現在の人間たちが過去の遺跡を発掘しているように、
未来の人間が偶然や好奇心から“オンカロ”への扉を開いてしまうことはないだろうか。
この映画で触れられているのは、そのような意味での「安全」である。
そのため、この映画では“オンカロ”の構造や廃棄物の埋蔵方法、
科学技術などの説明は最小限に留まり、
(序盤に「我々の科学技術は100,000年の保存を為すほどのものだ」と紹介される)
遙か未来の世代に“オンカロ”の中にある廃棄物の危険性をどのように伝えればよいのか、
という部分が多くのウエイトを占め、語られることになる。
途方もない時間の中で現在の国家、人種、言葉が全て無意味になるだろう。
人間の知識が全て失われている可能性もある。
保存媒体は石に彫るしかない。言葉も伝わらないために画で教える必要がある。
標識を立てたらどうか、本能に恐怖を与える効果のあるムンクの「叫び」を置いたらどうか。
とてつもない未来を見据えて議論される種々の伝達方法は壮大にして大仰であり、
(あたかもボイジャー探査機に搭載された地球外知的生命体へのメッセージのような)
当然正解というものは存在せず、
最後には未来世代の人間たちに対して祈るしかない、という
予測も保証も出来ない虚無感の漂う結論へと導かれる。
……と、ここまで書いていて頭の中に浮かんだのが昨年古本屋で購入した
ウォルター・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』というSF小説。
作品の紹介やあらすじはWikipediaなどに詳しいが、
本小説は核戦争「火焔異変」によって荒廃し、
過去の科学技術が全て悪として抹消させられた未来世界を舞台にした作品である。
そして『黙示録3174年』の序盤には第一部の主人公である修行僧フランシスが
かつての核シェルターを発見する場面があり、
そこでは「放射性廃棄物」について次のように綴られている。
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(前略)修行僧フランシスは、「放射性降下物」は半ば火トカゲの怪物だと思っている。
なぜなら言い伝えによれば、これは「火焔異変」に生まれたというではないか。
また半分は寝ている処女を襲う夢魔だと思っている。というのはこの世の異形のものは
いまでも「放射性降下物の子」と呼ばれるではないか。(後略)
[ウォルター・M・ミラー・ジュニア/吉田誠一訳
『黙示録3174年』東京創元社(1971)より引用]
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当然『黙示録3174年』は時代や設定、書かれた背景も今とは異なるフィクションであり、
単純に同列に語ることは当然出来ないであろう。
だが、何も知らない人間に
・人間の五感では全く感知することが出来ない
・非常に強大であり、全てを焼き尽くすエネルギーを持つ
・その影響により自然界に「異形のもの≒奇形」を生み出してしまう
放射性降下物の説明をした際、彼らは一体どのようなものをイメージするか?
という点においてはその記述は大きなリアリティを持っており、
『100,000年後の安全』で危惧されている状況とも非常に酷似している。
『黙示録3174年』では、最終的に知識を得た人間たちによって
再び核戦争が引き起こされることになる。
そして『100,000年後の安全』においても、
「未来世代の人間たちを信頼出来るか?」という質問に対して
専門家たちは言葉を濁すのみであった。
だが、ここには一つ大きな違いがある。
それは“オンカロ”に携わった人々が「未来の人間たちに伝えよう」としていることである。
「100,000年」をキーワードにかつての旧人、ネアンデルタール人について触れ
「100,000年前の人間を完全には理解出来ない」と言ってしまうのは簡単である。
しかしネアンデルタール人たちは今の人間たちに何かを伝えようとしていたわけではないし
当然、意図的に道具や化石を残していたわけでもない。
つまり“オンカロ”の存在のみならず、
100,000年後の人類に物事を伝えようとすること自体が初めての試みなのである。
ならば「ネアンデルタール人がどうたら~」などという前例は意味がないであろう。
「伝えようという人間の意志」がどこまで通用するのか。
それは非常に観念的であり、ドキュメンタリーとしては似つかわしくなく、
“オンカロ”という最先端の科学技術にもそぐわないテーマである。
だが、それこそが『100,000年後の安全』が示そうとしているものなのであろう。
それは本作が「視聴者を100000年後の人類になぞらえて語りかける監督」
の視点で作られていることからも明らかである。
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