テレビドラマ版 『幼年期の終り』 第1章 オーバーロード 感想

原作の発表から半世紀以上を経てついにテレビドラマとして映像化が実現した
アーサー・C・クラークの古典的名作SF小説『幼年期の終り』。

とにかく原作『幼年期の終り』は自分が一番好きなSF小説。
先日5/1にAXN Japanで本邦初放送となった一挙放送も
もちろん6時間ぶっ通しでテレビにかじりついてしっかりと見届けたので
さっそく感想を書いていきたいと思います。
例によってネタバレ満載です。


そんなわけで原作の第1部を映像化した
第1章「オーバーロード」(日本放送版では1~2話の前後編)。
いやーもう地球をバックにタイトルロゴが出てきた時点で鳥肌立ちましたよ。
ああ『幼年期の終り』だ! 自分はあの『幼年期の終り』をテレビで観ているんだ!
うーんもう感無量。

そして全体的なストーリーは
オーバーロードの宇宙船の出現、彼らによる紛争や飢餓の解決、
カレルレンと地球代表となったストルムグレンの交流、
「自由連盟」による誘拐事件、と原作の基本的な要素は押さえているものの
世界観やキャラ設定はずいぶん変わったなあ、というのが正直な印象。
中東の紛争や朝鮮半島の情勢について触れられていたり
ストルムグレンがスマホでカレルレンの写真を撮ろうとするところなどは
現代を舞台にするとこうなるんだなあ、といった感じですね。
オーバーロードのせいで人々の信仰と母親を喪った宗教家、ペレッタが
オリジナルキャラとして登場し第2章のラストまでメインを張り続けるのは
ちょっと日本人的には違和感がありますが
このあたりの宗教的な部分はしっかり描かないと
海外の人には逆に変にうつっちゃうのかなあ、と。

そんな中で一番大きな変化が
原作では国連事務総長だったストルムグレンが交渉術に長けた農家の男性
(作中でのあだ名は「ブルーカラーの預言者」)となっているところ。
「再婚を考えているが前の妻のことを今でも忘れられないでいる」などの
海外ドラマでは王道とも言えるような設定も加わって
良くも悪くも主人公として感情移入しやすい等身大のキャラクターになっちゃった感じ。
カレルレンに「政治家はメッセンジャーには向いていない」と
原作を真っ向から否定するようなことを言わせているのはある意味挑戦的ですね。

そしてオーバーロードが人類の前に姿を見せるまでの期間が
原作の50年から15年とかなり短くなっているのも興味深いところ。
恐らくこれは連続ドラマとしての繋がりを重視した結果ですね。
ドラマ版ではストルムグレンは続く第2章、第3章でも登場しますし
原作では第2章での登場となるジャン(ドラマ版での名前はマイロ)が
勉強好きな車椅子の少年、として第1章の時点で早くも登場していたりと
原作と違ってストーリー全体を通して出演するキャラがたくさんいて
連続ドラマとしての統一感を持たせようとしているのがよく分かります。
少年マイロの夢が「オーバーロードの母星に行くこと」なのがニクい演出。

そして約束の15年後、オーバーロードが遂に姿を見せたところで第2章へ続く。
カレルレンの姿に映画『デビルマン』を思い出してしまったのは秘密です。
まあ原作のビジュアルをそのまま映像化するとこうなるよね。うん。

あ、あとタイトルの『幼年期の終り』や
(創元社版では「地球幼年期の終わり」、光文社版では「幼年期の終り」)
地球総督カレルレンの名前などなど
(創元社版では「カレレン」、光文社版では「カレラン」)
固有名詞の表記がハヤカワ文庫版に則っているのが個人的には嬉しかったです。
自分が一番最初に読んだのがハヤカワ版なので
やっぱり一番思い入れがあるのです。

  

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