小説の刊行から約1年半が経ち、
WEB雑誌「クラブサンデー」での漫画連載も先日終了した
「サイボーグ009完結編」について思ったことを書いてみようと思います。
いろいろな意見があるかと思いますがまああくまでも私論ってことで。
あ、当然のごとく小説のラストまで超ネタバレしてますので
気になる人は気をつけて下さい。
「サイボーグ009完結編 conclusion GOD’S WAR」 私論
~サイボーグ戦士たちはなぜ死ななければならなかったのか~
故・石ノ森章太郎氏の遺稿を元に小野寺丈氏がまとめ上げた小説
『2012 009 conclusion GOD’S WAR』のテーマは『抵抗と救済』である。
「天才」と呼ばれた原作者が数十年間完成させられなかった物語を
漫画家でも小説家でもない血縁者が完結させた、という経緯を考えれば
本作が賛否両論となるのは当然の流れであるが、
更に言えば本作の評価は「ラストの矛盾をどう捉えるか」により
真っ二つに分かれるのではないだろうか。
小説の終盤、イワンによって全ての謎と敵の正体が明かされるシーンがある。
〔善〕の精神であるはずの、光の宇宙を統治している者達が
全てを仕組んでいたとは。
しかも、たとえ罪深き闇の子達であろうと、
それを滅ぼす選択をしたという事実。
悪人ばかりではない。真っ当な人間達も数多くいるというのに。
何が善で何が悪なのか、そして何が正義なのか、
ジョー達にはわからなくなってきていた。
それに、誰がために闘っていたのか……。
本当の神は、光の宇宙を統治していた者達だ。
神々に仕立て上げられたあの怪物達が、むしろ憐れにさえ思えてきた。
(小説『2012 009 conclusion GOD’S WAR』下巻 P274~P275より)
全ての元凶が光の者たち(善の精神)であり、 彼等は
「善悪が同居している地球人を一度殺し、善の部分だけを光の宇宙へ帰還させる」
ことを目的としていた。
また、今まで戦ってきた神々がそのための道具≒被害者であると示唆され、
ジョーたちはその事実に苦悩する。
ここで語られているのは完全なる善への疑問であり、
悪の部分を亡くした地球人が光の宇宙へ帰還することへの疑問である。
しかしながらこの構図はエピローグにおいて崩壊する。
神=光の者たちとの戦いで死を迎えたサイボーグ戦士たちは
光の宇宙へと帰還し、 安らぎと幸せの中でエンディングを迎えている。
光の宇宙の者たちを『黒幕』と描き、彼等の行為に疑問を感じていたにも関わらず、
最終的に光の宇宙=光の者たちの庇護の下で大団円となるのである。
ここで物語は明らかに破綻している。
人によっては後味の悪さが残るものだろうし、
サイボーグ戦士たちの死を賭した戦いには意味はなかった、とも考えられてしまう。
「光の者たちが心変わりし、地球人を認めてくれた」と考えることは出来るが、
それで光の者たちへの疑問が解消するわけではない。
では、この矛盾をどう捉えればよいか。
サイボーグ戦士たちの戦いの結末にどのような意味を持たせればよいのか。
ここで鍵となるのが石ノ森氏と小野寺氏の関係である。
神々との熾烈な戦いの中、ジョーは故・石ノ森章太郎氏について回想する。
宙にいるジョーはふと、ギルモアが訪ねた二十世紀の萬画家の事を思い出した。
彼も闘いぬいて死んでいった。
病床のなか、最後まで筆をはなそうともせず逝ったのだ。
自分の”生”を、自分の”生き様”を、全うして、闘って、闘って、死んだのだ。
成し遂げようとした事が未完に終わろうと、投げ出したわけじゃない。
生きる事を放棄し、自ら命を落とす人間などより、
よっぽど勇ましく、男らしい生き方。
だから決して卑下することじゃない。
そう、決して背中を見せず、前だけを向き。
(小説『2012 009 conclusion GOD’S WAR』下巻 P255より引用)
ここで「自殺=一種の逃げ」とも捉えられる表現をしていることに
反感を覚える人もいるだろう。
しかしこれこそがが石ノ森氏の闘病生活を見守り、
その生への執着を目の当たりにした小野寺氏の本音であることに疑いは無い。
その結果、小野寺氏の中で
・完結編を完成させることが出来なかった石ノ森氏
・志半ばで散っていくサイボーグ戦士たち
の両者は同一視されることになる。
石ノ森氏は結局、完結編を自らの手で完成させることが出来なかった。
ならば、その行為は徒労だったのか。
完成しなかったから意味のない、無駄なものだったのか。
いや、そうではない。
完成させようという意思を持ち、抗い続けたことこそが重要だったのだ。
これこそが小野寺氏が思い描いていたものであり、
小説『2012 009 conclusion GOD’S WAR』のメインテーマとなるものでろう。
かつて未完に終わった『天使編』には次のような台詞がある。
…そうだ、レジスタンス…抵抗だ!
彼等…「神々」に対抗することによって知らせるのだ…人間は生きたいのだと!
わるい育ちかたをしているというのなら──自分の意思で改良したいのだと!
…人類のすべてが…わるい種ではないと…
すべてをいっしょに滅ぼされるのはまっぴらだと…!!
ぼくたちが…そのための捨て石になるんだ!!
(サイボーグ009『天使編』第5章より引用)
『天使編』でのジョーの主張は
そのまま小説『2012 009 conclusion GOD’S WAR』に受け継がれている。
『天使編』でサイボーグ戦士たちは人間に悪の部分があることを否定していないし、
滅ぼされるのに当然の理由があることも認めている。
そして敵は創造主であり、戦っても勝ち目がなく、
自分たちの行動が全てが徒労=無駄死にに終わることすら覚悟している。
その上で彼らは自分たちの権利と意思を主張し
「たとえ敵わぬまでも抵抗する」ことを選んでいるのである。
小野寺丈氏の小説は無論、氏自身のオリジナル要素や独自の解釈、
石ノ森氏の逝去後の時勢を意識した描写も多大に含んでおり
「石ノ森氏が考えていた完結編」とは決してイコールではない。
しかし「敵わなくとも、抵抗することに、自分たちの意思を示すことに意味がある」
という点に関して言えば、小野寺氏の小説は未完の大作『天使編』を
真摯に受け継いだものと言えるであろう。
小説のラストは次のような文章で締めくくられている。
この惑星の人々は、ここにいる者達が、この時間を取り戻す為に、
どれほど死力を尽くしてきたかなど知りもしないだろう。
だけど彼等にとって、そんな名誉などどうでも良かった。
なぜならようやく、安らかに暮らせる平和を誰もが手にする事が出来たのだから。
(小説『2012 009 conclusion GOD’S WAR』下巻 P290より引用)
先に述べたように、このラストシーンは
それまでのストーリー展開から考えれば明らかに不可解な部分を抱えている。
だが、小野寺氏が書こうとしたもの、書きたかったものは「救済」であった。
例え物語の構成が破綻しようとも、いくつかの疑問や不自然な部分を残そうとも、
最期まで抵抗を続けたサイボーグ戦士たち≒石ノ森氏に
小野寺氏は救いを与えずにはいられなかったのである。
原作者が作中に登場するメタフィクション的な作品である以上、
著者の主観、石森氏への想いを色濃く出さずにはいられなかった。
小野寺氏によって故・石ノ森氏と同一視されたサイボーグ戦士たちは
最後まで抵抗し続け、志半ばで無念の死を迎えなければならず、
その上で絶対に救われなければならなかったのだ。
本作の矛盾の答えはここにある。
それが「著者≠石ノ森章太郎」「著者=小野寺丈=石ノ森氏の親族」であることを
殊更に強調させることになってしまったのは
読者にとっても小野寺氏にとっても皮肉なことであろう。
(了)
-------------------------------------------------------–
……とまあ長々と偉そうに書いてきましたが
別に理屈抜きのハッピーエンドでもいいんじゃないの?
みんなここまで頑張ってきたんだしさ、ねぇ?
という話。
※2016/11/07追記
少しばかり文章を推敲しました。