映画 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 感想

というわけで遅ればせながら観てきました映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」。
小学生の頃に旧劇ブームの洗礼を受けてどっぷりハマった身としては
「まさか十数年経ってもエヴァの映画観てるとは思わなかったわー」と
結構冷めた目で見ていられる部分があったり。

ストーリーは4部作の3作目ということで完全に「次回に続く」形になっており
「導入部のコンテナって超立方体じゃん! 漫画『度胸星』のテセラックじゃん!」
「『ヱヴァQ』のQはQ方向のQだったんだよ!」
「『度胸星』で『赤い大地』ならこれラストは火星に飛ぶんじゃね?」
などなどまあいろいろ言いたいことはあるんだけど
細かい考察はいろんなところで語られ尽くされてしまった感もあるし割愛。

というわけで以下、グダグダと。

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ここからは個人的な見解になるが、
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は「落とし前を付ける物語」だと認識している。
90年代以降のアニメを思弁的、内面的な流れに持っていった責任を取り、
(余談だがその後『機動戦艦ナデシコ』によって
正統派ロボットアニメを当てこする流れは完成してしまうこととなる)
エヴァンゲリオンを単なるロボット・エンターテイメントとして回帰させる。
そうした意図を節々から感じるのである。

実際に「序」そして「破」では各キャラの「物事の受け取り方」を変えることで
全体的な展開をマイルドで分かりやすいものへとしているし、
TV版及び旧劇場版では最終的に狂言回しとなった綾波レイをヒロインと位置付け
「破」ラストで高らかに「綾波を返せ」とシンジに宣言させている。
それらを考えても「純粋なエンターテイメント」を目指していることは明白である。

さて、そして今回の「Q」である。
本作は一見、フラストレーションの溜まる演出を増やしており
「破」までとは大幅に様相を変えているように見えるが
その本質は「序」「破」とさほど変わっていない。

それは、エンターテイメントを目指す上で邪魔になってしまった「昔のエヴァ」を
完全に切り捨てることを目的としている点である。
あくまでも過去のリメイクにすぎなかった「序」、
異分子として捉えられかねない新キャラを登場させた「破」、
その流れを受けた今回の「Q」では遂に既存キャラのデザインを大幅に変え、
時系列を一気に飛ばすことによって全く異なる世界観を提示している。
こうした段階を踏んだ変化を考えれば「Q」の流れは決して唐突なものではない。

そのような「過去を断ち切ること」は
新しいことをしなければ前に進めない(カヲル)
世界は可逆的なものではない(冬月)
などの台詞に代表されるように作中の節々に見られる。
本作のテーマがここにあることはほぼ間違いないであろう。

終盤においてシンジは「世界を昔のものに戻すこと」に固執し
結果として巨大な過ちを犯してしまう。
そしてアスカはそんなシンジを「ガキ」と連呼して罵倒する。
過ちを犯したシンジはアスカに背を向け、だだっ子のような態度を取る。
このあたりからは「14年も経って昔のエヴァに拘ってる奴はみんなガキなんだよ
的なメッセージをひしひしと感じるのである。

そして本作のラストにおいて
シンジはこれまでキーアイテムとされていたウォークマンを捨て、
「前の綾波レイ」に囚われていた本作のレイは
自分の意思で生きることを選択し歩き出している。
この二つは「過去を捨て前に進むこと」の象徴だろう。

「Q」は舞台設定やキャラの年齢を大幅に変えてはいるものの
カヲルとの交流やその死、エヴァとシンジを用いたインパクトの発動など
旧TV版20話~24話及び旧劇場版を意識した部分は多々見られていた。
しかしここから先は誰も知らない未知の領域に突入するのである。

つまりここで「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は
ついに過去作「新世紀エヴァンゲリオン」からの脱却を果たしたのである。
もう過去を振り返る必要はない。
待っているのは新世界の物語だけである。
そんなわけで続く完結編「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は
タイトルに反復記号を内包しながらも
リピートを否定する話になるんだろうなあ、と予想してみたり。

というわけで監督のメッセージを真摯に受け止めなければならない
旧劇場版リアルタイム組としては
当時小学生だったガキも立派な屁理屈をこねる大人のガキになりました!」と
こんな長文を掲げて開き直るしかないのである。てへぺろ。

   

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